心を病んで一部上場企業の工場を辞めた話【高卒工場勤務から進学】

 私は工業高校を卒業して大学には進学せず一部上場の大企業に就職し、工場作業員として働いていましたが1年経たずに心を病んで辞めてしまいました。

 そんな心を病んで辞めるまでの1年弱を、今だから書ける話として書いていきたいと思います。

もくじ

就職試験 

 私は工業高校だったのですが、高校から企業に就職する場合はあらかじめ企業から何人採用するという枠が決められており、応募人数が多い場合は校内選考(だいたい平均評定の上から順)を通ってから企業の採用試験に応募する事ができました。

 企業から既に何人採るという話で来ているので、校内選考を通れば採用試験で何か問題が無ければほぼ確実に受かるような試験です。

 私が受けた会社は自動車部品を製造している、一部上場の大企業で社員は全体で一万人を超え、採用人数も毎年何十人と採用するような会社でした。試験自体は簡単な筆記問題と集団面接で同じ会場に大卒の人も何十人といましたが、高卒組と大卒組で分かれて試験を行う形でした。

 高卒組は、ほぼ全員が工場勤務なので各工場の工場長が面接官となり、志望動機や自分の長所短所など教科書に載っているような質問内容で、まさに高校生相手の面接という感じです。

 試験結果は1週間ほど経った後に、先生からみんなの前で発表されて無事合格となりホッとした瞬間でした。

入社〜研修期間 

 卒業式・春休みが終わり、通学から通勤になり自転車から初心者マーク付きの自動車で通うようになりました。

 入社式は本社ビルの最上階にあるホールで行われました。
入社したのは数十人で社長ももちろん出席で、この人が一部上場企業のトップなのだと全く違う世界の人を見る気持ちで、この時は社会人として働いていくという気持ちでワクワク感がありました。

 入社式の内容は、社長や役員など偉い人の話を聞いて大卒新入社員代表の方が挨拶するようなもので、学校の入学式と同じようなものでした。

・研修期間 

 我々高卒組は工場配属なので工場での研修となります。大企業で工場が大きいため、一つの工場で様々な部署があり人数も数百人といます。

 研修は最初の1週間程度は座学を行い、会社の歴史やマナー研修を行ってその後、現場研修として工場内で複数部署を1週間程度づつ周って体験し、どんな部署があり、どんな仕事をしているのかを研修として受けました。

 研修自体は色々な部署の仕事を体験できて、バイトもした事のない私には今までの学生生活では教わった事のない「仕事」について勉強でき、非常に有意義な時間でした。

しかし、私はこの研修期間中に1つ疑問を感じる事がありました。ある製造ラインで研修を受ける前に、そのラインの担当者の方を主任から紹介されるのですが、

「この人は、このラインをもう20年も担当しているベテランなんだ!」

その際、私はものすごく失礼ですが心の中で思ってしまいました。

「えっ? この仕事を20年もやってるの?」

 その製造ラインは材料をセットすると自動で組み立てられ、製品となって出てくるラインでした。自動製造ラインの担当者、いわゆるマシンオペレーターの仕事は簡単に言うと「機械のお世話」です。

 自動化されている製造ライン、特に大企業のものですので少し研修すれば誰でも扱えるように製造ラインは完成されており、マニュアルもしっかりと整備されています。

もちろん長年やっていなければわからない事も多々あるのでしょうが、新人でも半年もやればできる仕事を20年もやり続け、人生の半分くらいの時間を捧げている人がいるという事に衝撃を受けました。

「自分もそうなるのかな…?」

・配属先決定 

 研修が終わり最後の日に新入社員が集められ、そこで希望の部署を3つ記入し提出しました。

 後日、配属先の発表で私は第3希望の部署となりその部署へ向かいました。すると研修では見ていない場所、工場見学コースにもされない場所へ課長に連れて行かれ、

「ここが配属先だよ」

 配属になったのは研修時や見学時に見た綺麗な組み立てラインではなく、金属を削る油の臭いが立ち込めるライン、しかも4勤2休という昼勤12時間・夜勤12時間の24時間フル稼働の場所でした。

「まぁ、理想と現実は違うよね」

そう自分自身、心の中で言い聞かせて次の日から勤務スタートです。

 配属されて3ヶ月程は昼勤のみを行い、バイト経験も無い高校卒業したての若造なりに、やり方を教わり、やっている姿を見て、わからないところは聞いたりしてなんとかやっていました。

・休職者の復帰 病みのきっかけ 

 配属された時から言われていたのですが、自分の担当するラインにはもう1人担当者がいるけれども休職中との事でした。(仕事中に倒れたとかなんとか)

その人が復帰し初めての挨拶を行いました。ちょっとキツめだけど愛想の良い20代後半の方でした。

 私はまだ昼勤のみですが彼はシフト制ですので、彼が昼勤で有れば一緒に、夜勤で有れば違う人と働いていました。彼はそのラインの立ち上げからいるため詳しく、一緒の時は機械の設定・調整方法などを教えてもらっていました。

ある日、何度か見ている前では行っている設定でしたが今回は彼がいなかった、自信もあまり無かったので彼に確認しに行きました。

すると、

「何回もやってんだから、いちいち聞きにくるんじゃねぇよ!」

 機械は間違った設定だとしてもその通りに動きます。私はここで設定をミスして不良品を大量に作ってしまうよりは良いと思った、研修でも「不安だったら先輩方に聞いてからやる事」と教えられていた為、高卒18歳の頭で考えた行動でした。

ですがその行動を否定され、今まで怒られる機会もあまり無く育ってきた私はこの出来事で萎縮してしまい、これが病みが始まる小さな小さなきっかけでした。

・シフト勤務の開始 

 私も工程の担当者となりシフト勤務になりました。ほぼ1人で行うものでしたが各シフトの班に班長がおり、休憩時間などは時間をずらして休憩している班長が行ってくれていたので、そのあたりはしっかりしていました。

ただ、そのラインの担当者は私なのでそのシフトの時には機械のお世話をしっかり行わなければいけません。

 特に私が担当していたラインは生産数量を可能な限り上げなければいけないラインでした、そのためトイレに行っている間に止まっていたり、機械の部品を交換しているときに最終工程の機械が止まってしまうことがあると、生産数量に響くため非常にプレッシャーがありました。

 ラインの上には生産数量と予定数量がカウンターで表示されており、シフト終わりの引き継ぎの際にそのカウンターの数字を確認します。3人で回していたラインで自分はいつも生産数量最下位でした。今思えば何年もやっている人と、入ってすぐの新人が同じ数量のはずがないですが、自分はみんなの足を引っ張ってしまっているという気持ちでいっぱいでした。

 もちろん引き継ぎ時にも数量が少ない事は言われますし、数量に気を取られ機械の異常(オイル漏れなど)に気付かずに引き継ぎしてしまい怒られたりと、引き継ぎの度に何かしらで怒られていました。

 特に私がシフト勤務できつかったのは先ほどの引き継ぎです。

自分が担当している時間に、こういうことが起こった、今こんな状況ですなど次の担当者に伝えるのですが、いつも怒られ完全に委縮している私には自分が原因ではないのに機械トラブルの発生や不良品の発生など悪いニュースを伝えることが、全て自分のせいで起こっていると思っていたため伝えるのが非常につらかったです。

・他部署からの応援者 他社からの応援者 

 私がいたそのラインは前述のように生産に余裕がない状況だったため、他部署からベテランの方が移動となりました。40代半ばくらいのベテランの方でした。

 その方は、二回り近く離れた若造相手に優しくしてくれていました。機械にも詳しく、分からないことは聞けば丁寧に教えてくれ、外部の研修にも連れて行ってもらうこともありました。この人には萎縮せずに質問したり会話もでき、安心できる方でした。

 その後すぐ他社からの応援も来ました。

 子会社の社員だったらしいですが、ヘッドハンティング?され親会社である私のいる会社に入社し、配属されたそうです。子会社から引っ張られるくらいですから手際が良く、すぐに私よりも生産数量を上げ信頼される存在となりました。その方も性格は明るく接しやすい方で話しかけてくれたりして、その方とも楽しく会話ができる中でした。

・周りの人は全員自分の事を「つかえない奴」だと思っている 

ある日、引き継ぎ時に休職復帰した彼に怒られることがあったのですが、その際

「お前、〇〇さん(他部署からのベテランさん)に使えないって言われてるぞ」

 その時は非常にショックを受けました。

 笑顔で挨拶してくれたり、質問した際にも新人の私にもわかるように説明してくれているけど、内心そう思っているのだとわかり、その後はその方と会話している間、こんなに親切に教えて、若造の自分を気にかけている感じだけど内心は「使えないやつ」だと思っているんだなと分かってしまい、完全に安心できる方ではなくなりました。
 この時点で私はこのライン、この部署で「つかえない奴」とレッテルを貼られていたのだと思います。

他社からの応援者の方にも

「〇〇君(私)の後に引き継ぐと機械のトラブルが多い気がするんだよね」

 やはり「つかえない奴」扱いを受けていたのだと思います。それを言われ、この方との会話中もつかえない奴と思っているんだろうなと思うようになり、同じライン担当者で気軽に会話をできる人は居なくなりました。

「相当、親に甘やかされて育ってきたんだな」

「同期のあいつはしっかりこなしてるぞ、あいつと入れ替えるか?」

 そんなことを言われ続け、怒られるのが怖くてビクビクしながら仕事をして、それが原因でミスをして怒られという負のサイクルに入っていました。時にはミスを隠す事もありました。

 高校の時には成績は良い方で部活でも多少成績を残しており、自分はそれなりにできる方だと勝手に思っていたため、こんなにも社会では自分は使えない人間なのだと思い知らされました。

 

 そのころから休職復帰の彼には挨拶をしても返事をしてもらえなかったり、シフト引き継ぎ前には息が詰まり、心臓がバクバクするようになってきました。

 勤務時間中は休憩時間、誰かに話しかけられても「この人も心の中でつかえない奴と思っているんだろうな」と思うようになり、会話を避け、冬の夜勤で寒くても外の階段で1人で食べたり、食事後も車にいるようになりました。

その時からこう思い始めました。

「自分は何かしらの知的障害があるのではないか?」

「自分は存在しないほうが会社・社会のために良いのではないだろうか?」

はじめてのズル休み 

 このころから家を出るのが更に辛くなり、通勤時も息が詰まり会社が近づくと涙が出てきたりと体の異変が出始めました。今思えば心の警報だったのでしょうが、「今まで甘やかされてきて自分の心が弱いせいなんだ」と全て自分が悪いと思っていたため息の詰まり吐き気を抑え、泣きながら会社に向かっていました。

 会社に向かっている途中には「どんな死に方が苦しまないのだろう」と考えることも度々ありました。

 怒られた引き継ぎ後にはトイレで声を聴かれないように泣いて、時には吐くこともありました。
係長がそんな自分を心配して声を掛けてくれるのですが、この時は全て自分のせいだと思っているため「大丈夫です」と答えていました。

この人も、つかえない奴だと思っているだろうから。

 

 ある日のこと、会社に向かい駐車場に着いたのですが車を降りることができませんでした。
気付いたらみんなが出勤している中、駐車場出口に向かって車を走らせ、近くのコンビニに車を停め電話で今日は休む旨を伝えました。

しかし、家には帰れません。実家暮らしで親がいます。親も異変に気付いてはいましたが、とりあえず会社に行って働いているものだと思っています。そのため時間つぶしのために山に行き散歩をしました。

 作業着を着ていたため周りからは不思議に思われたでしょうが、その時は周りの目など気にしていませんでした。

「休んだことが親に伝わっていないだろうか」

「休んだことで班長に迷惑をかけてしまった。」

「休んだことでまた怒られるのではないだろうか」

その日は山で過ごし家に帰りました。

 次の日からは出社し仕事を行いました。同じフロアにいる同期にも心配されましたが、休職復帰の彼と仲良く会話しているのを知っている私は「大丈夫だよ」と言ってその場をすぐ離れました。

きっと同期の彼も私の噂を聞いて「同期のつかえない奴」と思っているでしょうから。 

心の糸が切れたとき 

 また引き継ぎ時に怒られました。

 その際、なぜか感情が抑えられずに私は泣き出してしまいました。
それに驚いたのか怒っている彼も慰めてくれました。なんと声を掛けてくれたかは覚えていませんが「期待してるから怒っているんだ」「泣かれたら俺が悪者みたいになっちゃうだろ」みたいなことを言っていた気がします。
 とにかく、責めているつもりは無いという話だったと思います。

 そのことで自分の中にも「期待してくれているんだ」と少しの希望が芽生え、「頑張ろう」という気持ちもズタズタのメンタルでしたが出てきました。

 

しかし、人間そうすぐには変われず、少し経ったとき引き継ぎでまた怒られてしまいました。
その際に、

「この前は、泣きこきやがって~~~~~~~~」

 波線のところは覚えていません。
 前回慰めてくれたのは全て嘘で、今言っているのが本音なんだと理解し、この瞬間「心の糸が切れる」というのが起きました。今でも覚えていますが、ほんとに「プツン」という感じで、自分はこの部署この会社この世界に必要ないんだと本気で思いました。

 自殺する人というのは、この状態で咄嗟的にしてしまうのだろうなと思います。

 その後の話は全く頭に入らず「もうお前帰れよ」と言われ、誰にも話し掛けられないようにトイレに駆け込み泣き、吐き、車の中でも泣きながら帰りました。

「自分はこの世界に存在してもマイナスしか生まないんだ」

本気でこのように思っていました。

失踪~辞めるまで 

 その次の日も出勤です。

ですが、その日は出勤をしませんでした。
家を出ましたが会社には行かず、携帯の電源を切ってひたすらフラフラと車で走っていました。

 会社からは出勤しておらず携帯にも繋がらないため、自宅に電話がいき、会社に行っているはずなのに行っていないということで親は非常に心配したようです。自分の子供が失踪したわけですから。

その日は結局帰らずに次の日に家に帰りました。
駐車場に車を停めると、親が出てきて助手席に乗り「良かった」と泣いていました。恐らく自殺してしまうのではと思っていたのでしょう。正直言って自殺も少し考えました。

それからは休職となり自宅で過ごしました。
その間も考えることはマイナスの事です。

「自分はなんて弱い人間なんだ」

「実は何かしらの障害があって、普通の社会人として働けないのではないか」

「会社で働くことができず、お金を稼げない人間が家にいて親も嫌だろうな」

「自分は社会不適合者というものなのだろうか」



 しばらくして親と相談して会社を辞めることにしました。

 私の中ではもう辞める以外の選択肢はありませんでしたが、親は1つの会社で何十年と務めており転職ということを経験したことが無いため、口には出しませんでしたが辞めることには反対だったようです。

 辞めるにあたっては実際に会社に行かなければなりません。
 親が付添うと言ってきましたが、最後の辞める時くらいは自分で済ませたいと思い一人で行きました。

辞める手続きから現在 

 会社に向かう通勤路を車で走っていると、仕事をするわけでもないのですが息が苦しくなり、涙が出てきます。数年経った今でも、近くを通ると息が詰まる感じがします。

 到着すると、自分の部署の課長と総務の課長がいました。1人で来たことに驚いていたようですが、そのまま小さな会議室に連れていかれました。

「大丈夫か?」

大丈夫ではないですが、大丈夫ですと答えるしかありません。
色々と話を聞かれたり手続きをしましたが正直あまり覚えていませんが、一刻も早く辞める手続きを行い、この会社の敷地を出たかったというのはしっかり覚えています。

 

 現在、一緒に入った同期とはもちろん連絡を取ることはありませんが、SNSなどで見かけると同期同士で結婚して子供が生まれたり、工場から抜かれ本社で働いていたりと、自分からすれば一部上場企業で働き続けていられる羨ましい人たちとなってしまいました。

 自分はというと現在、社員が100人も居ないような小さな会社の工場で、間接部門として働いています。大企業とは違いお給料もボーナスも少ないですが、裁量が自分に多くあり仕事内容も自分に合っているようで、ストレスは少ない環境で働くことができています。
交代勤務でもないため以前よりも健康的な生活ができるようになりました。

 もし、あのまま我慢して続けていれば完全に心はおかしくなっていたでしょうし、心を病むことなく仕事を続けていたとしても異動は無く、あの人のように人生のほとんどの時間をあの生産ラインに捧げることになっていたと思うので、今となっては辞めて良かったと思うくらいにも回復しました。

同じように現在苦しんでいる人に 

 辞めてからしばらくの間は精神的に少しおかしかったと思います。

 涙がぽろぽろ零れてきたり、寝付けなかったりとありました。数年経った今でこそ落ち着きましたが、完全では無く後遺症のような形で残っていることもあります。

 上司などからすごく軽い注意を受けただけで昔のことを思い出して息が詰まったり、未だにその会社近くを通るときには息が詰まったり、動悸がしたりします。恐らくこれはもう完全には治らないのでしょう。

それほどまでに自分の心はダメージを受けたのだなと思います。

 

もし、今わたしが昔の自分にアドバイスするならこんなことを言います。

・全て自分が悪いと思い込まない、抱え込まない。

・その会社以外にも多くの会社が世間にはある。

・所詮はサラリーマン自分が抜けても代わりはいる。

 

 

 働き先というのは欲を出し過ぎなければ見つかります。1つの会社で思いつめて自殺してしまっては負けです。言い方は悪いですが、あなた1人が自殺したところで社会・会社は何も変わることは無く、通常通り進んでいきます。逆にあなたがいても社会は何も変わることは無く、通常通り進んでいきます。何も影響がないのであれば、生きて好きなことをやっていた方が良くないですか?

 

まだ26年しか生きていませんが、どうもこの世の中は適当に生きているほうが都合が良いみたいです。

思いつめずに自分のために生きましょう。

この記事を書いた人

28歳の男性会社員です。
工場作業員勤務→専門学生→IT企業勤務を経て、現在は小さな会社の工場で品質管理の仕事をしています。

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